山鹿エリア 歴史・文化

赤穂義士遺髪塔

あこうぎしいはつとう

<市指定史跡>忠臣蔵ゆかりの地。赤穂義士十七士の遺髪塔です。

日輪寺の境内には、忠臣蔵で知られる赤穂義士十七士の遺髪塔があります。
元禄十五年(1702年)十二月十四日(実際は十五日午前三時)の赤穂事件で、本懐を遂げた赤穂義士四十七士のうち、大石内蔵助良雄を始めとする十七士の遺髪が納められています。
本懐後、義士たちは四大名(細川家、松平家、毛利家、水野家)にお預けになります。芝白金(現在の東京都港区)の細川藩邸にお預けになったのは大石内蔵助良雄を始めとする十七士でした。内蔵助らを預かった細川家では、それをたいへん名誉であると喜び、藩主綱利公自ら義士たちを出迎え「武士の鑑だ」と激賞しました。
そして十九人の接待役(正しくは義士接伴役)をつけ、藩主と同じ食事を用意し、書物、眼鏡、こたつ、風呂などのあらゆる待遇で義士たちをもてなしました。
その接待役の一人が堀内伝右衛門でした。伝右衛門は、義士たちに特別な思いを抱き、義士たちが切腹するまでの50日間、日夜その接待に全力を傾けました。義士の親族に手紙を届け歩いたり、義士たちの話しを聞いては、くわしく書きとめていきました(堀内伝右衛門覚書)。
義士たちは、彼らの遺言により浅野家墓所泉岳寺に葬られましたが、切腹の日が近づくと、伝右衛門はせめて遺髪なりともと義士たちに願い出て、遺髪をもらい受けることになりました。
元禄十六年(1703年)二月四日、義士たちの切腹により接待役の役目を終えた伝右衛門は、遺髪を知行地である山鹿へ持ち帰りました。そして、菩提寺である日輪寺に遺髪塔を建て、八十三年の生涯を閉じるまで、遺髪塔を守り続けました。
現在も遺髪塔は地元の堀内組の方々に守り継がれ、毎年2月4日の義士命日には「義士まつり」が行われ、遺髪塔前で慰霊祭が行われています。
このご縁で、兵庫県赤穂市と山鹿市は、平成14年に姉妹都市として結ばれ、さらに平成20年には両市の青年会議所が姉妹提携を結んでいます。
赤穂市のホームページはこちら http://www.city.ako.hyogo.jp/

また、当市は、忠臣蔵ゆかりの地の所在する全国の自治体が親善と友好を深めながら情報交換を行い、地域活性化と発展向上のために協力していくことを目的に創立された「義士親善友好都市交流事業」にも加盟しており、毎年開催される「忠臣蔵サミット」にも積極的に参加しています。
「山鹿流陣太鼓と山鹿って関係があるの?」
大石内蔵助は、儒学者であり兵学者の山鹿素行に兵学を学んだといわれています。内蔵助が討ち入りの際、山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしたことはあまりに有名ですね。山鹿素行(山鹿流陣太鼓)と山鹿市のかかわりはありませんが、同じ名称を持った両者にゆかりのある大石内蔵助。これも何かのご縁かもしれませんね。

堀内伝右衛門 (ほりうちでんえもん)
正保2年(1645年)~亨保12年(1727)没
細川家使番。二百五十石。義士接伴役十九人のうちの一人。
肥後藩眼科医 堀内三盛の三男 名は勝重
堀内伝右衛門の墓所が日輪寺境内にあり、墓碑には「亨保十二丁未八月二十六日泉石院山林旦夕居士」と刻まれています。(70歳の時に隠居、剃髪して「旦夕(たんせき)」と改めています)

〈江戸細川藩邸にお預けになった十七士〉
大石内蔵助良雄
吉田忠左衛門兼亮
原惣右衛門元辰
片岡源五右衛門高房
間瀬久太夫正明
小野寺十内秀和
磯貝十郎左衛門正久
堀部弥兵衛金丸
近松勘六行重
冨森助右衛門正因
潮田又之丞高教
赤埴源蔵重賢
奥田孫太夫重盛
矢田五郎右衛門助武
大石瀬左衛門信清
早水藤左衛門満尭
間喜兵衛光延

●絵本のご紹介●
「子どものためのれきし絵本~赤穂義士遺髪塔の巻~」
赤穂義士と堀内伝右衛門のゆかり、そして遺髪塔がなぜ山鹿に建立されたのか...大人にも子どもにもわかりやすく紹介しています。
絵本で赤穂義士とのゆかりをひも解いてみませんか?
山鹿市立博物館で販売しております(1冊700円)
お問い合わせ TEL 0968-43-1145

施設情報

所在地 〒861-0552 山鹿市杉1607
TEL 0968-43-1579
駐車場

あり

交通アクセス

九州自動車道菊水ICから県道16号で山鹿市街地へ向かい国道3号を北上し日輪寺の信号を右折。菊水ICから約20分

所在地Map

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